第30章 既存プロダクトへ安全に追加する
新規事業では、まだ存在しない利用体験を確かめます。既存プロダクトの機能追加では、すでに利用している顧客、蓄積されたデータ、契約、料金、問い合わせ対応を壊さずに変える必要があります。新機能の価値だけでなく、変えないものと、問題時に戻せる範囲を先に決めます。
30.1 現在の基準値を保存する
機能追加後だけ測っても、改善したか判断できません。着手前に次を確認します。
- 利用者数、利用頻度、主要経路の完了率と所要時間
- 問い合わせ、誤操作、障害、解約の件数と内容
- 現在の処理費用、運用工数、応答時間
- 顧客区分、契約、料金、利用権限による違い
- 手作業や外部システムを含む現行業務
- 現在守っているサービス水準と顧客への約束
ログがない場合は、それ自体を制約として記録し、短期間の観察や標本調査で基準値を作ります。
30.2 影響範囲を画面の外まで追う
一つのボタン追加でも、データ、権限、請求、サポートへ影響します。
利用者と画面
↓
業務手順と承認
↓
API・外部サービス
↓
データ保存・検索・削除
↓
権限・監査・セキュリティ
↓
料金・契約・顧客への説明
↓
監視・問い合わせ・障害対応
各段で、変更点、変えない点、所有者、確認方法、戻す方法を記録します。図の矢印は手順の方向だけを示し、責任の移動まで意味させません。
30.3 既存データを使える前提にしない
AI へ渡す前に、データの意味と利用条件を確認します。
- 何の目的で収集し、AI 機能への利用が許されているか
- 欠測、重複、古さ、入力者による表現差がどの程度あるか
- 正解として使う項目が、実際には人の都合や過去の偏りを含んでいないか
- 顧客や組織ごとの閲覧権限を検索時にも守れるか
- 削除・訂正要求が、検索索引や評価データにも反映されるか
- 開発、検証、本番の環境間でデータを混ぜていないか
履歴データに過去の差別や不公平が含まれていれば、AI はそれを効率よく再現する可能性があります。精度だけでなく、顧客区分ごとの差を確認します。
30.4 既存の接続と互換性を守る
API を変える場合、既存利用者が使う項目や動作を突然変えません。新旧の形式を一定期間併存させる、版を分ける、変更予告を出すなどの移行策を決めます。
AI 出力を後続システムが利用する場合は、自由文のまま渡さず、必要項目、形式、許容値、欠落時の扱いを契約として決めます。形式チェックに合格しない出力は、人へ戻すか安全な既定値へ切り替えます。
30.5 機能フラグで提供範囲を分ける
機能フラグとは、コードを再公開せず、特定の利用者だけ機能の有効・無効を切り替える仕組みです。次の順に範囲を広げます。
- 開発・テスト環境
- 社内の検証者
- 合意した少数顧客
- 一部の顧客区分
- 希望者が有効化する公開
- 標準機能としての公開
各段階に、対象、期間、成功基準、停止条件、判断者を置きます。顧客ごとに設定が違う場合は、誰が何を利用できるかサポート担当者も確認できるようにします。
30.6 移行を一回の切替にしない
データ形式や業務手順を変える場合は、次の段階で確認します。
- 移行対象と除外対象を数える
- 複製データで変換を試す
- 件数、合計値、関連、権限を新旧で照合する
- 一部を移し、実際の業務で確認する
- 本移行中の書込みを止めるか同期するか決める
- 失敗時に旧版へ戻す条件と期限を決める
- 戻せなくなる時点を承認する
バックアップがあることと、復旧できることは同じではありません。復旧手順を実際に試し、所要時間を測ります。
30.7 公開前に運用を完成させる
本番公開の条件には、機能テストだけでなく次を含めます。
- 品質、費用、待ち時間、安全性が基準内である
- 障害や品質低下を検知する監視と警報がある
- ログに必要な事実が残り、不要な個人情報は残らない
- 問い合わせ窓口と一次回答が準備されている
- 既知の限界と人へ切り替える方法を利用者へ説明している
- 停止権限者、技術担当者、事業責任者の連絡順がある
- 旧機能または手作業へ戻す手順を試している
- モデルや外部サービス停止時の代替がある
AI の誤回答をソフトウェア障害と別物にしません。顧客へ損害を与える品質低下は、事故として報告、停止、調査、再発防止の対象にします。
30.8 料金と顧客への約束を確認する
既存プロダクトでは、新機能が料金と契約へ影響します。
- 標準料金に含めるか、追加料金にするか
- 利用量に上限を置くか
- AI 利用費が増えても採算が保てるか
- 出力の正確さや応答時間について何を約束するか
- 顧客データをどの AI サービスで処理するか説明するか
- 利用規約、プライバシー説明、管理者設定を変えるか
- AI を使いたくない顧客に代替手段があるか
販売資料が技術的な限界を越えて約束しないよう、営業、法務、サポート、開発で同じ説明を持ちます。
30.9 公開後は採用と害を同時に見る
利用率が上がっても、確認工数や誤回答による損失が増えれば成功とはいえません。
| 価値を見る指標 | 害と負担を見る指標 |
|---|---|
| 作業完了時間、採用率、継続利用 | 修正・棄却率、問い合わせ、苦情 |
| 売上、継続、対象業務の増加 | 1件当たり費用、待ち時間、障害 |
| 人の作業削減 | 見逃し、権限違反、重大事故 |
対象顧客を段階的に増やしながら、基準値と比較します。改善が見えなければ、モデルを変えるだけでなく、対象業務、画面、人の確認方法、機能そのものの必要性へ戻ります。
30.10 引継ぎでは所有者を空欄にしない
本番後に必要な仕事ごとに社内所有者を置きます。
- プロダクト成果と優先順位
- モデル、プロンプト、検索、コード
- 評価データと公開基準
- データ権限、情報管理、法務確認
- 費用と利用上限
- 監視、問い合わせ、事故対応
- 顧客説明と契約更新
外部支援終了後も、モデルやデータの変更時に誰が再評価するかを決めます。担当者名だけでなく、必要な権限、時間、手順、代理者を確認します。
考えてみる問い
追加しようとしている機能について、現在の基準値、影響を受ける既存顧客、段階公開の最初の対象、停止条件、戻す先、公開後の所有者を書いてください。
既存プロダクトへの追加で大切なのは、慎重さだけではありません。小さい範囲で早く学び、問題があれば止め、証拠が増えた分だけ範囲を広げることです。